イルカショーで泣いたこと。
水族館に行って
イルカショーに号泣。
私もあんなふうにみんなで舞台を作りたい。
新潟にはナチュラルなダンスが入っていけるイベントや舞台がない。
(ヒップホップとかジャズダンス、モダンダンスはあるのです。)
そのことで模索してきた15年。
ダンスを知ってもらうためにワークショップを開催したり
海外からアーティストを招いたり
小さなギャラリーで自主公演をしたり。
とうとう自前で劇場を作って舞台をやることに成功し
これからだ!と思ったところで、劇場も取り壊しになったり。
せっかく産まれた芸術祭などの
数少ないアートの現場も助成が切れてなくなっていく。
せっかく集まったダンサーもみんな就職や結婚、出産で数年すると辞めていく。
舞台って1人で作れるものじゃないから
こういうダンスがあるのだって知ってもらって、まずは仲間を集めていくことが必要なのだけれど
その準備を1人で進めていくことに疲れてしまった4年前。
いろんなイベントに声をかけさせてもらうも、ダンスは難しいと断られて挫けていたここ数年。
海外にいる時は、いろんなイベントに声をかけてもらって踊れていた。
東京にいる時も探せばすぐに踊る場と繋がった。
私が暮らしていた海外の国々ではクリエイティブで新しいダンスが
当たり前に街の中やイベントの中に受け入れられて、
面白がられて、取り入れてもらえていたのに
地方ではそれが本当に難しくって、私は私を生かし切れない。
私のダンスは新潟には必要ないのだ、と受け入れて行くこの10年でした。
(今思うと、東京や海外にいた時にうまくいきすぎていた。)
私が珍しくクヨクヨして泣いていた時に
とうとう夫が
「一緒に踊りたい!」
「一緒にダンスを作りたい!」
「君は作品作りしていないとその才能を生かし切れないよ!」
「ヨガを学んでダンスの奥深さがわかったよ!」
と言ってくれました。(号泣)
家族でダンスをテーマに暮らして行こうと。
やりたいと思ってくれる人、
いいって思ってくれる人が1人じゃないって本当に頼もしい。
そんなことが起こった途端にポロポロと
「ラタさんの作品で踊りたいです!また作品を作ってください。」
ってメッセージをいただけるようになってきている。
頑張って、もう一度、ダンサーを育てて
劇場を作るところから、できるかな。(新潟には市民の使える小劇場が無い。)
制作も一緒にやってくれるような仲間を育てること、できるかな。
「表現の場を作る。」
そんな当たり前のことがうまくできなかったり、
とても苦労してしまった新潟という地方での暮らし。
いろんな感情や葛藤を味わったこの15年。
急激にアートへの理解や寛容さ、多様性が受け入れられるようになってきて
少しやりやすくなったここ数年。
私がちょっと早すぎる時期に地方に戻ってきてしまって
その不自由さを体験したことには理由があったのだろうとしみじみ感じる。
この不自由さや、言っていることが通じない感じ、
「げいじゅつなんて役にも立たない」
「あなたは役立たずだ」
「社会人としてちゃんと働け」
「アートで暮らして行くなんて無理だ」
と、言われ続けて、そんな自分を申し訳なく思って
自分を封じ込められながらもパワフルに創造してきた10年は、
きっと環境を育んで次の世代がやりやすくするためのステップだったし
私がもっとラクラク何かを創造できるようになるための準備だった。
こうやって私が疲れて一度諦めて、
その中で、それでも集まってきてくれる人たちや
今私たちを文化的、精神的に支えてくれる優しい人たちの中で
ここからきっと本当の私の表現が生まれてくるんだろうと予感している。
多分私はこんなふうに、
生活には直接関係のない文化や芸術を、
周りには無駄だ、贅沢品だと言われながら
「自分にとっては大切なんだ。生きることと同じなんだ。」
と手放さずに、ずっと大事に育てて行く人なんだろう。
誰に何を言われようと、
「ごめんなさい」と思おうとそこだけはずっと変わらない。
自分に諦めがついて、
何だかまたひとつ大きくなった。
自分の粘り強さには時に驚かされる。
これだけ粘ったこと、
干からびながら、罵られながら、
忘れられながら、馬鹿にされながら
それでも、自分の中にきらきら光る宝物があり続けること。
私が大事にしてあげなくて
誰が大事にするのか。
私は踊る。
私はつくる。
私は繋げる。
私は呼吸する。
私は育てる。
それは私にとってのあたりまえ。
ずっとずっと。
この満月から私の中の宝物は光を増して
そんな古い苦しみや痛みが手放されていった。
きっともう、申し訳なく思うことはないだろう。
こんな風に私たちは痛みに対する鎧を作り、
中の傷が癒えたら鎧を外し
より大きく、強くなって行く。
私に痛みを与えた人も、きっとそれを手放して、楽になっているといい。
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