毎朝のルーティーンに瞑想を。



ずっとリクエストいただいて出来ずにいた
日々の瞑想のクラスを開催します。


瞑想ってすごい。

すごいものだと知っているからこそ

一日8時間練習していた頃の自分と、今の自分がかけ離れてしまって

「私には瞑想なんて教えられない」

と避けていました。


火災で家が燃える前は

朝に1時間、夜に1時間と続いていた瞑想。


沖縄に来てからそれが出来なくなってしまって。


最近、やっと日々の中でも瞑想を取り入れられるようになり

あぁ、今の私には瞑想が必要なんだなぁ、

なんだかんだ、火災ですごい体験をしたおかげで

いいところまで進んできているんだなぁ、と

不思議な氣分で今の自分を眺めています。


瞑想ってどんなイメージがありますか?


ヨガの中で瞑想とは睡眠中の夢のように「起こる」ものであり

「する」ものではありません。

ただ座って目を閉じていてもそれは瞑想ではなく

「瞑想状態」という脳の状態に入って初めてそれを瞑想と言います。


そんなに簡単には訪れないけれど

一度体験すれば「これだ!」と、すぐにわかります。


私はずっとyogaを通しての瞑想しか練習してこなかったのですが、

火災の起こる3ヶ月くらい前から

ご縁をいただいて仏教瞑想のオンラインスクールに入り

仏教的伝統にのっとったマインドフルネス瞑想の練習を始めたところでした。


マインドフルネス瞑想の中では別に瞑想状態を求められません。

俗世的な生活を行なっている人でも行えます。

ただ、ざわざわと動いている自分のマインドを見つめる。


その練習をすることです。


例えば私の瞑想の練習中。

目の前で子が泣いている。

それをみている。そしてそれに対して反応し、子供を抱きしめる。

その私をもう1人の私がみている。

感情が動き、ちょっとイラッとする。

イラッとした私に気づいて、観ているもう1人の私がいる。

子どもが腕の中で寝付き、

また静かな瞑想の中に入り、ホッとして静寂の中に入っていく私を

もう1人の私がみている。


たった5分の間に

私の心はこんなにもさまざまに動いている。


それを私はみている。


ただそれだけのことです。

だけどTVやスマホにチューニングされている現代人はそれがなかなか出来なくて、

(意識が端的になっている。)

「私を見る」ということに専念しようとしても

実はわたしたちの思考はさまざまなところを動き回ります。


明日のご飯のこととか、支払いのこととか、仕事のこととか、天気のこととか?

それにすら気づけていない私たちのマインドは

赤ちゃんのそれのように途切れ途切れに彷徨っているのです。


意識も筋トレと同じで

お坊さんがお寺でお経を唱えるように、行者が行をするように

積み重ねていくことで観察するという意識が育ってきます。


脳にとっては20分というのが一つのタームになっているそうで

20分「観察する意識」行うことが最低のライン。

その20分を積み重ねていくことで

あなたの意識は育っていくのです。


思うのだけど、最近「発達障害」といわれるものも

この意識が育っていないことで起こっている現象ではないかと思っています。

ヨガのコースにも

「私は発達障害だ」

という方が来たりして、最初は5分と座っていられなく

瞑想も全く出来ないのですが、

1ヶ月もヨガのトレーニングを行なっていくと

1時間半じっと座っていられるようになるのです。


その子は自分がそれを出来たことにとても驚いていましたが、

意識は環境の影響を受けて育つので、

きっと体験を積み重ねることで

誰にでも出来ていくことだと思います。


ここまで説明しても「意識ねぇ・・・」くらいの認識かもしれませんが

意識の状態が変わると人生は変わります。

意識の状態について、

もっと詳しく説明したいけれど、文章だと難しいなぁ。


一緒に体験しながらだと、もっと伝えられるんですけれどね。


詳しくは練習を始めてからね。


とにかく瞑想クラス、
絶賛募集中です。

Breathing Art.

B r e a t h I n g A r t . * s I n c e 2 0 1 0 *

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