ダンスの学校について

クラスに小学校5年生のすごく伸び盛りの子がいるんです。
肉体も意識もダンスの方向に向いていて、今やればやった分だけ力になる。

この子に今、週3で稽古させてあげたいなーと思うのだけれど、学校が終わってからレッスンに来て20時過ぎに帰るという日が週に3回にもなるのって、家族への負担も大きいだろうしどうなのかなーと思う。

けれど、本人もダンスが大好きで、基礎練習の面白さを感じていて、作品で踊る楽しさも理解して来ていて、肉体の成長もちょうどいい感じに助長しているこのタイミングを逃すのは本当にもったいない。

学校の授業で毎日1時間半でもダンスをやらせてあげたらどんなにいいか!
と思ったんです。

そしてふと、学校のアイディアが湧いたんです。

ダンスがベースのフリースクールをやればいいじゃないか、と。
ダンスと一言にいってもですね、必要なスキルは色々あるんです。

まず基礎レッスンでは体を観察し調整することを学ぶ。
そしてダンス用の身体を育てていく。
音のことを知らないと音とセッションできないから、
太鼓を始めいろんな楽器を演奏する方法を学ぶ。
歌を歌う。
そして歌や音をつくることを学ぶ。
心が育たないと作品作りができないから、
本を読んで掘り下げることを学ぶ。
脚本を書くことも必要だから、小説を書いたり、詩を書いたりすることも学ぶ。
裸で踊ってもいいけれど、服を着るのもいいものだから
衣装をデザインすること、裁縫を学ぶ。
仲間とコミュニケーションをとって、一緒にダンスをつくることを学ぶ。
照明をどうやってつくるかを学ぶ。
自然の仕組みを生かして、美術をつくることを学ぶ。
音響、照明をどのように連携をとっていくのか
みんなで共有するためのキューシートの書き方を学ぶ。
CDで音をつくる際の音源の編集の仕方を学ぶ。
フライヤーのデザインを学ぶ。
ダンサーとして存在するための食事の作り方、
作品によって食事を調整する方法を学ぶ。
食事のための安全な食材作りを学ぶ。
世界のベーシックな知識としてタネのことを、水のことを学ぶ。
体験的にチャクラを理解できるように瞑想やムーブメント瞑想を学ぶ。
世界中の人とコミュニケーションをとるために英語を学ぶ。
エネルギーの調整のためのヨガ哲学や瞑想を学ぶ。
身体との親密感を増すためにマッサージを学ぶ。

それももちろん自然発生的な形で。

ざっと書き出すだけでもこれくらい。
どれも私が自力で学んでできるようになったけれど、
学校で教えてもらえたら楽だったのにーと思うことばかり。

この中に、数学も国語も英語も家庭科も理科もみんな含まれる。
そして、6年くらいかけてダンスを使って自由に表現できるという
1つのスキルが自分のものになる。

できたら、自分で自分のオリジナルのダンスが作れるようになるところまでいきたい。

そして6年経ったらまた別の専門を学びにいってもいいし、
同じものをさらに深めていってもいい。

子どもたちは学校の後に習い事に行くスタイルを卒業して
フリースクール的なところで自分のやりたいことを通して総合的なことを学び、
放課後は習い事には行かずに友達や家族と一緒に思いっきり遊ぶ。

そんな芸術やスポーツに関するフリースクールがいくつかあって
(けれどスポーツは競技として教えないことが原則。
幼少期は楽しむために全てがあるのであって、
競うために何かを学ぶ感覚を刷り込むことはまだ早いと思う。)
週に3回はこちら、週に2回はこちらって選べてもいいかもしれない。

たとえばサッカーとか、剣道とか、大工とか、音楽とか、演劇とか、
それぞれのアーティストが作った
遊びながら、暮らすように、豊かな生活に必要なこと全てを学べるような場所。

もちろん「受験」というものに参加して「受験」というものをクリアして
競争社会の中で「勝ち残った人がつける職」につくというルールの中で遊びたい人は
そちらを選び楽しむこともアリだと思う。
社会が用意した「大会」を利用して
勝つ喜びや、負けない氣持ちを育てるような運動に参加してもいいと思う。
それはそれでスリルがあったり、「勝つ」の後にある強烈な化学物質の分泌がきもちよかったり
切磋琢磨している感がきもちよかったり、そういうのって中毒性がある部分でもあるから
うまくいけば経済的な成功が得られたりしてメリットはあるだろうし。
ただそれは、無意識に巻き込まれるのではなく、
意識的にその中に敢えて居るのだと自覚しておかないと危険だとは思う。

ここまで豊かになって自由に動き回れる時代になって
それでも受験戦争の末に勝ち取れる「椅子」の数は増えていなくて
その「椅子」も今後、ずっと安泰かわからない変化の時代にあって
皆が受験のための教育を選ぶ必要は無い時代にきたのではないかな。

早いうちに新しいみんなの「椅子」というか
椅子なしでみんなで座れる「座布団」みたいな場所を
それぞれが作り出していく時代にきたんじゃないかな。

なんにせよ、
1つのことを自分のものにするっていうことへのチャレンジはなるべく早いほうがいいし、

そんなチャレンジをいくつか自分の中で持っていて、
いろんなものの中を行き来できる隙間があるともっといいと思う。

と、
今後、ダンス教室の運営をどうしていこうと考えている中で思いついたことでした。

もちろん、そんな簡単に
「学校をやめてダンス学校に行きます!」なんて人もいないだろうから
普通のダンス教室としてやりながら、蓮(我が子)を中心に模索していこうということにはなるけれど

ダンスアーティストとして教育に関わらせてもらっている以上
本当に世界に必要なダンサーを育てていきたいなと思っています。


余談ですが記録。

実は昨日、オーストラリア在住のアーティスト、ナオコさんにくわーしく星を読んでもらいました。

その中でひとつ驚いたのは、私は過去生で「社会改革」をやってきているから
今世でもそういうことは簡単にできてしまうということ。

たしかに、過去の自分の人生みたいなのをフラッシュバックしてたくさん見ていた時期に
革命的なことをしていたときの記憶はすごく鮮明にからだのなかにあった。

たしかに私は、社会の仕組みを破壊して、新しい仕組みで動くってことは
さりげなく当たり前にやっているかもしれない。

だからこそ逆に新しいとはいえ「システム」として置かれようとしているものへのきもち悪さというのも持っているかもしれない。
(たとえば「パーマカルチャー」とか「自然栽培」とか自然なものに名前をつけて、自然であることををカテゴライズするという不自然なシステムとか?)

だからこそ、今世では「社会のために」ということではなく
「自己表現」をしに生まれてきているのだそう。

「それ」が実は一番の世界のためになるようなシステムが
私の人生にはうめこまれているそう。

たしかに優先順位を一番最後にしてしまう「自分自身」の表現。

それを追求すること。

長い時間をかけて作り出してしまった私の思考の癖。

「自分のことは、みんなのために働いた後で。」

今後は、社会のためにとか世界のためにとか、子どもたちのために、ではなく、

ただ自分の表現を追求すること
やり方を追求することがキーになる。

やりたかったけど避けてきたことって、やっぱりキーワードになってるんだなー。
と、驚いたことでした。

このことと、学校のことが繋がっているきがしてならないのです。

ということで、

今日も世界が優しく美しくありますように。




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